ドットの集合に恋ができるのか?『ラブプラス』やりたくなった

ゲームにおける物語性について - 魔王14歳 - chikumaonline - BLOGOS(ブロゴス)

・・・長大なストーリーを前面に押し出したビデオゲームが増えてきた・・・映画や小説と同様に、ゲーム作品を「物語を表現するメディア」として位置づけても、決して無茶な主張ではないでしょう。ここで、「優れた物語性を持つゲーム作品があるのはよいとして、それをゲームで表現する必要はあったのか?」という疑問が生まれます。・・・物語は人間の脳が見出す・・・アクションゲームをスタートした際右に進みたくなるのは、画面構成による心理誘導の効果・・・こういった直感的なデザインを無数に積み重ねることによって、ひとつのゲームが形作られています・・・「お約束」・・・「プレイヤーの頭の中で話が組み立てられていく」働き・・・映画や小説と異なるゲーム表現の最も特徴的な要素が、プレイヤーの介入の有無にある・・・ゲームの場合は映画や小説と異なり、プレイ過程の「描写」をまるまる用意する必要がありません・・・プレイヤーの行動によって、何もないところから「物語」が自ずと立ち現れる・・・「描写」の積み重ねを中心とする映画や小説とは、根本的に異なる表現思想・・・だから、もしゲーム部分をないがしろにして映画・小説的な表現に比重を置きすぎると、両者が乖離してしまいます・・・シナリオのない物語は原理上生まれえます・・・『たまごっち』・・・無機質なドット絵や年表が並んでいるだけでも、人間はそこに物語を見出せます・・・『ラブプラス』・・・

「アクションゲームをスタートした際右に進みたくなるのは、画面構成による心理誘導の効果」

これはゲームだけでなく、普通のソフトウェアにも適応できるテクニックだ。どうすれば「これは押せる」と思わせるグラフィックになるか?単なる箱のグラフィックスにどうすれば「次がある」と思わせられるか、などだ。


「もしゲーム部分をないがしろにして映画・小説的な表現に比重を置きすぎると、両者が乖離してしまいます」

これは多分、スクエニのゲーム的なことを指摘しているのだろう。あのムービーの違和感というのは、「描写」の積み重ねを中心とする映画や小説とは、根本的に異なる表現思想のゲームに、映画や小説のそれを導入しすぎた結果なのかもしれない。


「無機質なドット絵や年表が並んでいるだけでも、人間はそこに物語を見出せます」

そう思う。『たまごっち』や『ラブプラス』が例に挙げられている。『たまごっち』は少しやったことあるけど、『ラブプラス』は全然やったことない。

はたしてドットの集合に恋ができるのか?これはアンドロイドに恋ができるのか?と同じくらい人間的、哲学的問題ではないだろうか?

大いに興味が出てきたが、DSかぁと。いつも持ち歩くiOSかAndroidで出て欲しい。

あ、この感覚・・・将来のゲーム専用機の衰退の原因では・・・

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