迫り来る電子の声と人形に宿った凄まじい情念 〜 映画「ボーカロイドオペラ葵上with文楽人形」@アミューあつぎ映画.comシネマ

映画「ボーカロイドオペラ葵上with文楽人形」 を地元の映画館「アミューあつぎ映画.comシネマ」に見に行ってきた。




動機

一つの理由は、アミューあつぎ映画.comシネマの副支配人でおられる杉本穂高さんのこの記事を見たから。

「ボーカロイド™ オペラ 葵上 with 文楽人形」人ならざるものの魂の躍動 | 杉本穂高

もう一つの理由は、なぜか分からないけれど以前からアンドロイド的なものが気になっているから。

古くはbjörkの「all is full of love」。



近年では、冨田勲×初音ミク「イーハトーヴ交響曲」とか、オリエント工業のラブドール展とか、平田オリザ・石黒浩のアンドロイド演劇。

これらの作品には根源的に共通する何かがあるはずだと思うのだけど、いまだにそれが一体何なのか分からないので、今度こそハッキリさせよう!と。


「葵上」とは?

まず、「葵上」とはどう読むのか?「あおいのうえ」と読むらしい。そしてその「葵上」とは一体何なのか?源氏物語をベースにした能の演目だそうだ。

葵上 - Wikipedia


第一印象

この映画は普通の映画ではない。演劇を撮った映画というか…しかし、決してドキュメンタリーでもないし…初めて見るタイプの映画なので、正直どう評価していいのか分からなかったが、とにかく、電子の声と人形が凄い念をもって迫ってきた!という感じだった。


単純ではないプロット

パンフとサントラCDを買って帰ってきて、「あれは何だったんだろう…」と考えているうちに、源氏物語にも能にも文楽にも造詣が無いのと、約30分という短さもあって、全然話しについていけてなかった自分に気がついた。

要するに話はこうだ…と、まとめようとしたが、やっぱりこれは簡単にまとめられるような話じゃない。

そこで、表面的な「事実」だけ挙げていくとこうだ。

ボカロPのヒカル(光源氏)はボカロのミドリ(六条御息所・ろくじょうのみやすどころ)に曲を書いていた。その曲を聴き、あこがれて歌手になった生身のアオイ(葵上)はボカロPのパートナーとなった。その後のある日、生身の歌手が憑かれたようにあばれまくる!

という感じ。

ボカロPが生身の歌手を得てボカロを捨ててしまったので、ボカロがジェラスして生身の歌手に取り憑いて暴れる!という話なら分かりやすい。しかしよくよく考えると、怒っているのはむしろ生身の歌手の方ではないのか?という。

いや、本当にどういうことなのか分からない(^^);

この話は生身の歌手のマネージャーの回想という形なのだが、最後にマネージャーが「あれは何だったんだろう…」と一人佇む。

自分もまさにその心境だ。


文楽人形の「スーパーモード」

文楽人形には基本的に表情が無い。まさに能面だ。そう思っていた。しかし、文楽人形には「スーパーモード」が存在することが分かった。

何と文楽人形の口がぱかっと開いて、鬼?悪霊?とにかく凄い情念を表現していた。

後でよくよくポスターを見ると、口のところに裂け目があることが分かった。


ボーカロイドは言霊を載っけられる楽器

滑らかで完璧すぎる音階。そして広すぎる声域。ボーカロイドは言霊を載っけられる楽器だ。

その人間わざではない歌声で凄い情念を表現していた。


「共通する何か」は分かったか?

どうだろう…しかし、パンフにあったこの言葉はそれかもしれないと思った。

「命なきものに命を吹き込む」

ボーカロイドも、ラブドールも、アンドロイドも、文楽人形も、確かに人間ではないけれど、生きているように感じた。

つまり、「生きている」というのは物理的な問題ではなく、「生きている」と信じる心理的な問題だ、ということだろうか。


アミューあつぎ映画.comシネマの「前説」という新しい試み

アミューあつぎ映画.comシネマでは、どうやら映画の前に「前説」をするらしい。

これまで何度となく映画館に行ってきたけれど、前説など初めて見た。シネコンにばかり行ってきたからだろうか。

非常に好感を持った。

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