現在の天皇の葬儀の形は「万世一系」のように昔から常に続いてきた「伝統」ではないということがわかった - 天皇の葬儀 考4

日経13.11.19朝 天皇の葬儀 考4 幕末期 大規模な修陵 中世〜近代 天皇陵の「再興」

1467年からの応仁・文明の乱以降、朝廷・公家社会の式微(衰え)は甚だしく、1500年に死去した後土御門天皇は死後43日間葬儀を行うことができなかった。あとを継いだ後柏原天皇は費用が無いため、即位式を行ったのは天皇位についてから21年後だった…

江戸時代の1617年の後陽成天皇の葬儀から費用を徳川幕府が負担することになった。朝廷の財政はようやく安定を得たが、同時に幕府による天皇の徹底した管理、隔離政策が始まった。

幕府が統治思想として取り入れた儒教(主に朱子学)が武家の知識層の天皇観に大きな影響を与え、天皇の葬儀や山陵祭祀(さいし)に変革をもたらす…

1654年の後光明天皇の葬儀から、長く常態化していた火葬から土葬への転換がなされた。皇室史に詳しい日本法制学者の所功氏は「後光明天皇は儒教、とりわけ朱子学に造形が深かった。だから儒教式の土葬を要望し、その遺志が尊重された」という。ただ、火葬の場であった「火屋」に棺(ひつぎ)を置いて行う形式的な「火葬の義」は続いた。

江戸時代、武家社会に社会秩序を重視する儒教と日本の固有性を尊ぶ国学が広まった。名分上の君主である天皇の権威が徐々に高まり、古代からの一系を可視化する天皇陵の復興が行われる…

幕末の1862年から、尊王思想の高まりにより最大の修陵事業「文久の修陵」が実施された。この事業で最も重視されたのが「万世一系」の始祖である神武天皇陵だった…

天皇陵に鳥居、拝所を設ける形式も文久の修陵でつくられた。仏教とは切り離された山陵祭祀も新たに行われる。天皇陵はこの時期に「創設」されたといえる。

幕末の1866年に死去した孝明天皇の葬儀は泉涌寺内で行われたものの、仏教色が排除され、古代儀式を参考に「再興」された神道形式だった…

一時期は財政的な問題で皇室が壊滅的になった時期もあったんだね。武家社会の浸透で皇室(朝廷)が遠ざけられていた時期もあったと。

そんな時期を経て、学問が天皇観に影響を与えて変化が起きたと。学問って大事ね。ところで、土葬は儒教式なのか。

さらに幕末に尊王思想が高まって天皇の地位が上がっていったようだ。尊王攘夷だね。まぁ要するに、外敵を打ち払うために天皇をその運動の象徴にしたかったんだろうね。軍国主義の源流なんだろう。

何か皇室って、時代時代に翻弄されて利用されてばかりのような気がするよ…

あともう一つ、幕末に天皇の葬儀について大きな変化が起こったようだ。

・天皇陵の創設
・仏教色の排除
・神道形式の再興

時代の要請に基づく大改革だったのだろう。

今はどうか?時代の要請は特に無いように思えるのだけれど、時代の要請がなかったとしても改革すべきは改革すべきではないだろうか。

今上陛下は時代の要請によらない、天皇自らの意志で行う改革をなさろうとしているのではないだろうか。ただ、これもある意味で、時代の要請によるものなのかもしれない…

全4回の「天皇の葬儀考」を読んではっきりしたのは、現在の天皇の葬儀の形は「万世一系」のように昔から常に続いてきた「伝統」ではないということだ。

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