「墓はいらない。遺骨は山中に散骨せよ」という天皇もいらしたようだ - 天皇の葬儀 考3

日経13.11.18朝 天皇の葬儀 考3 譲位制度により簡略化 平安 迷信思想の呪縛

…淳和は遺詔で748年の元正天皇以来の火葬を復活させただけでなく、「墓はいらない。遺骨は山中に散骨せよ」と指示した。究極の薄葬である。兄の嵯峨も「墓はいらない。穴を掘って棺を埋めるだけでいい。そして草が生えるままにしておけ」と遺言した。嵯峨、淳和兄弟の葬儀は山陵の全否定だった。国立歴史民俗博物館研究部の小倉慈司准教授は「嵯峨、淳和は儒教的合理主義をもって山陵を否定しようとした…

平安期に発達したのがタタリを恐れる御霊思想で、天皇の先霊もタタリをなすと考えられれた。850年に死去した仁明天皇の陵には「鎮圧装置」としての陵寺が建てられ、陵と寺院が合体するようになった…

991年の円融天皇の死から火葬が常態となる。譲位制度が確立し、上皇として死ぬため、簡略な葬儀が可能となった…

中世に入ると武家が政権を握り、朝廷が衰微したこともあって、天皇の葬儀は「国家行事」から近親や側近だけによる「イエ」的なものになる…

現在、泉涌寺域内には13世紀の後堀河天皇以降、24人の天皇陵(管理は宮内庁)がある。ほとんどが石塔形式だ。また同寺の「霊明殿」には天智天皇から昭和天皇まで53人の天皇の位牌(いはい)が安置されている。泉涌寺では天皇の葬儀が27回行われており、いまも「御寺(みてら)」と呼ばれている。

同寺での葬儀は、天皇の棺を僧が読経するなか、火屋で火葬。収骨は翌日僧が行い、主に深草法華堂(同市伏見区)などの墓所に収めるのが通例だった。

江戸時代の後光明天皇葬儀(1654年死去)から土葬に転換し、墓所(陵)も泉涌寺内に造られるようになり、天皇の葬送一切は同寺で完結することになる。

今回もまたまた盛りだくさんの情報量(^^);

歴代天皇の中には、火葬だけでなく、「墓はいらない。遺骨は山中に散骨せよ」という究極の薄葬を指示した天皇もいたようだ。その動機は、どうやら国民の負担を考えてというか、儒教的な合理主義にあったらしい。昔は何か儒教的合理主義がカッコいいものだったのかな?

一時期の陵はタタリを恐れての「鎮圧装置」という位置付けだったらしい。

譲位制度の確立による上皇化によって薄葬が可能になったというのも興味深い。現代の天皇は終身だけれども、今上陛下の健康を考えれば「上皇」という考え方もありなのかもしれない。その方が陛下がお望みの薄葬がやりやすくなるということもあるし。

石塔形式の陵があるというのも初耳だ。

あと火葬の方法。僧が読経するなか火屋で火葬するというもの。神道じゃなく、仏教なのね(^^); まぁそれは置いといて、天皇陛下はしっかりとした火葬場を作るのではなく、「火屋」的な簡素なものでいいとお考えなのかも。。。

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