集団的自衛権の議論は本質を捉えない表層の議論。そしてウソにウソを重ねるための議論。

日経14.05.16朝 安保懇報告書の主な内容 集団的自衛権行使を容認

…憲法9条をめぐる憲法解釈は戦後一貫していたわけではない。1946年6月、当時の吉田茂首相は「自衛権の発動としての戦争も、交戦権も放棄した」と述べたが、朝鮮戦争が勃発し、自衛隊が創設されて大村誠一防衛庁長官は54年12月、「自衛のための抗争は放棄していない」と憲法解釈を大きく変えた…

政府は…81年5月の答弁書で、集団的自衛権を有することは主権国家である以上当然だが、行使することは必要参照限度の範囲を越え、憲法上許されないとの見解を示した…

憲法には個別的自衛権や集団的自衛権についての明文規定はなく、個別的自衛権の行使についても政府は憲法改正ではなく憲法解釈を整理することで認めた経緯がある。

こうした経緯に鑑みれば必要最小限度の範囲の自衛権行使には個別的自衛権に加えて集団的自衛権の行使が認められるという判断も政府が適切な形で新しい解釈を明らかにすることで可能であり憲法改正が必要だという指摘は当たらない。…

集団的自衛権の議論は本質を捉えない表層の議論だ。

まず、憲法に集団的自衛権の明文規定が無いのは、そもそも自衛権についての記述が無いからじゃないのか?

日本国憲法第9条 - Wikipedia

  1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

  2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

小学生がこれをどう読めば日本には自衛権があると読めるの?先生は、親は、この文章で日本には自衛権があると、どのように説明できるのか?

実際、1946年6月に当時の吉田茂首相が「自衛権の発動としての戦争も、交戦権も放棄した」と言ったそうじゃないか。これが誰もが納得する正しい憲法解釈だと思う。

その後、朝鮮戦争などの国際情勢の変化に対応するため、なぜか憲法を「改正」しようとせずに憲法を「解釈」してしまった。これが日本のウソつきの始まりだ。

人は生まれながらに自衛権を持っているように、その人の集まりである国家が自衛権を持つのは当然のことだ。そして自衛という行為には個別的も集団的もなく、自衛のためにはあらゆる手段を使わなければならないというだけのことだ。

つまり、大村誠一防衛庁長官が憲法を「自衛のための抗争は放棄していない」と解釈した欺瞞は行為としては間違っていたが、国防論としては正しかった。

安保懇報告書は「政府は憲法改正ではなく憲法解釈を整理することで認めた経緯がある」から今回もOKだと言っているようだ。笑止。またウソにウソを重ねるつもりなのか。

ただ、当時の大村誠一防衛庁長官同様、やり方は間違っているが、やろうとしている事は正しいと思う。

日経記事より

日経記事より

これらはどれも、人として、国家として、当然のことではないだろうか。

憲法を自衛権の発動としての戦争も交戦権も明確に認めるよう改正すれば、そもそもこんな議論は必要無い。

日本をとりまく状況が時間的余裕を与えてくれないということも重々承知の上だけれども、それならなおさら一刻も早く憲法を改正するために動かなければならないでしょう?

子供にもちゃんと説明できる、正直な国になるんだ。

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